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その十二、湖の遠い記憶

 さてこれで「子育て桜」のお話しは、だいたいお終いです。
 でも、もう一つ付け加えておくことがあります。現在、ゆきえが育った山奥の村は、もうどこにも存在していません。それは何故かって?
 実はこのお話しは、ダムに沈んだ村に伝わるお話しだったのです。といっても村が消えたのは、このお話しの何十年もの後のことですが。

 ある年、ゆきえの育った村の下流に、大きなダムが建設されることになりました。ダムが出来ることにより、ゆきえの村は完全に湖に沈むことになりました。当然村人の中には、強硬に反対する者もおりました。でもその声もやがてむなしく消えてゆきました。
 と言いますのも、大きく姿を変えようとする国の勢いに、この村は、対抗できるほど豊かではありませんでした。この頃、日本中が高度成長に沸いていました。都会の暮らしがどんどん豊かになって行く一方で、山村ではますます過疎化が進んでおりました。唯一の頼みの林業も、輸入木材に押され、経済的に成り立たなくなっていたのです。 若者達の多くは村を去り、ゆきえの村も老人ばかりになっておりました。結局、ダム建設が決まるまで、さほど時間はかからなかったそうです。
 村人達は、村を立ち退く代わりに、ダム建設公団にある事を要求しました。それはダム湖の周囲に、村のシンボルであった桜の樹を植えることでした。そのことが村人にとって、この地に自分たちの愛する村があり、貧しくとも助け合って生きた、いとおしい暮らしがあったことを示す、たった一つの証でした。ダム建設作業員に混ざって、多くの村人が周囲の山々に桜の木を植えたそうです。こうしてダムへと続く沿道とダム湖周囲には、桜並木が造られました。やがて村人達はその桜並木を通って、愛おしい山村を去って行きました。日本の暮らしが豊かに変わって行く中で、ゆきえの村は人知れず、その歴史を閉じたのでした。

 

 では、あの「桜観音」と「子育て桜」は、どうなったのでしょう? ダムによって村が沈むと決まった時、村の人々は、あの大岩が落ちてきた裏山の山頂に、観音堂を移したそうです。ゆきえの家の裏山は、半分以上が水没から免れました。しかし村人にとっては、この山頂から村全体を一望できる事が、なによりも大事でした。なので観音堂移設に伴って、ごくささやかなダム湖展望台も作られました。
 もちろん「子育て桜」も、お堂と一緒に山頂に移植されました。但し、本来の「曙桜」の根っ子は、移植することが困難でした。そこで新しく接ぎ木した、若い「曙桜」の方を「子育て桜」として、山頂に移した様です。それとご本尊の観音様は、登志夫とゆきえの一族に引き取られてゆきました。もちろんその後は、登志夫が彫刻家に造らせた、愛らしい厨子に納められました。そして山頂のお堂には、同寸同型のブロンズの観音様が納められました。

 

 

 村がダム湖に沈んだ後も、村の住人だった人達が、観音堂にやって来ては花を添えておりました。そして桜の咲く頃には、有志によって法要も行われていたようです。しかし、もはやそうした人たちも数少なくなってしまいました。もともと村人には老人が多かったので、こうした事を続けてゆくのは困難でした。やがて何時しか「桜観音」は、人々の記憶から消えて行きました。
 でもこの観音堂は、今でも山深い急斜面の山頂に建っているそうです。山奥のこととて、ほとんど訪れる者の無いダム湖の周囲には、今も桜並木が取り巻いて、湖面に届きそうなほど枝を伸ばしているそうです。満開の桜が花を散らす頃になると、ダム湖の表面は、一面にピンクの花びらで埋め尽くされると聞きました。
 面白いことに、桜の咲く頃に湖から見上げると、観音堂の建っている山頂から金色の朝日が現れるそうです。 逆に朝日を背にして観音堂から湖を見下ろすと、雲海に沈む湖の周囲に淡いピンクの霞がかかり、彼岸の景色もかくやと思う美しさと聞きました。
 そして観音堂の側には、再び大きな樹に育った曙桜が、物憂い香りの花をいっぱいに咲かせているそうです。今でもこの桜は、高い空と遠い昔の物語を秘めた湖を映し、淡くはかない藍色の影をたたえた不思議な花を咲かせていると聞きました。
 でももう、この桜の樹の根本にやってくる子供は、ひとりもいません。曙桜は、子育ての樹としての役割を終えたのです。今年の春も山頂の観音堂では、淡い藍色の花吹雪の中で、ダム湖の底に眠る村を小さな観音様が、静かに見守っていることでしょう。

2000年 3月 9日:起草
2002年 4月14日:追記
2003年 5月22日:追記
2006年 1月15日:加筆
2008年 7月15日:加筆


ー完ー


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