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その十一、おはつ観音

 すると庭の柿の木のあたりから、何か物音が聞こえます。客人でも来たかと思い、ゆきえは僧達にことわって庭に下りました。驚いたことに、数人の村人が身を潜めるように仏間の窓の軒先に座っておりました。みな、目を真っ赤に泣きはらしております。ゆきえは座敷に上がるように薦めました。ところが村人達はそろって断り、客間の縁先に並んで立ちました。その中に遠縁の男がおりました。男は頬の涙をぬぐうと、ゆきえに頭を下げました。

「ゆきえさん! 悪かとは思ったがばってん、どげんしても気になって、そこで話ば聞かせてもらった! 俺はずっと、あん観音様には何か訳があっとは思っとった。ばってん、まさか、はつえさんの身にそぎゃんこつあったとは知らんかった」

 庭にいた村人全員がうなずきました。そして遠縁の男は、老僧に頭を下げました。

「あん観音様がはつえさだとするなら、このままじゃあいけん!
「お坊様、お願いでございます。どうかしばらくこけお泊まりになって、この観音様のご供養ばしてはいただけんとでしょうか?」

 別の村人も言いました。

「こげんか考えは罰当たりかもしれんばってん、おばあちゃんも一緒に供養して欲しか。きっとばあちゃんも、はつえさんといっしょに居ったいでしょっから」

「おう、それは良か考えかも知れん」

「そうしてあげまっしょい」

 そして村人全員が口々に、「お願いします」と頭を下げました。これに老僧は、言葉に力を込めて答えました。

「もちろんじゃ! わしはそのために、ここへ来たのじゃからな」

 村人が大喜びしたことは言うまでもありません。すると一人が、このように提案しました。

「では私らは、あの倒れた桜の樹で、観音様のお堂ば造りまっしょい」

「おおっ! それは良い考えだ」

 村人はうなずきあって、大いに手をたたくのでした。もちろん、切り倒したばかりの木材は、乾燥させねば製材出来ません。なのでひとまず仮の観音堂が作られることになりました。

 

 

 それから、村はちょっとしたお祭り騒ぎとなりました。仁宗和尚の話はあっという間に広まって、噂を聞いた村人が、ますます大勢ゆきえの家の観音様をお参りに来るようになりました。そんなことになっているとはつゆ知らず、後からやって来た登志夫は、このお祭り騒ぎにずいぶん驚いたようです。しかしゆきえから事情を聞かされ、いたく感銘したようでした。そして遠縁の男に、お堂はぜひ自分に建てさせて欲しいと申し出ました。ところが遠縁の男は、この申し出を辞退しました。

「登志夫さん、まっこと有り難かこっです。ばってんお気持ちだけ頂戴します。はつえさんのことは、私ら村の人間の気持ちの問題ですたい。ぜひ御堂は私らの手で建てさせてはいよ」

 登志夫は、遠縁の男の気持ちがよく分かりました。

「わかりました。この件はお任せします。
「でも、もし私に出来ることがありましたら、遠慮せずに言って下さいね」

「そのお気持ち、大事にします」

 

 まもなく高台に、観音堂が完成しました。それは可愛らしい観音様に似合った、高さ三尺(約90cm)程の、素朴な御堂になりました。そして裏山を背にして、折れた桜の樹と村全体を見下ろす様に置かれました。ただしそれは一週間ほどの急ごしらえだったので、とても慎ましいものでした。もともと豊かな村ではなかったので、豪華な御堂は無理だったのです。そのかわり、落下した大岩を加工して御堂の土台に据えるなど、皆で知恵を出し合いました。

 観音堂が完成した翌日には、さっそく法要が営まれました。この日まで近くのお寺に滞在していた仁宗和尚が、念入りに法要を行いました。村人達は、皆それぞれに野山の花を摘んで供えました。やがて小さなお堂は、花に埋まらんばかりになったそうです。
 またこの法要には、噂を聞いた近隣の人々が、一目観音様を拝もうと集まりました。そしてどこから聞いたのか、以前に「桜観音の奇跡」を記事にした新聞社までやって来る騒ぎとなりました。その様子は日曜版に特集が組まれ、再び人々の感動を呼び、ゆきえの村をいっそう有名にしたのでした。

 

 法要を済ませた仁宗和尚は、ことさらご機嫌でした。村を去る日、ゆきえは老僧と最後の挨拶を交わしました。

「まっこと良き法要であった。ほんにこの村は人情篤き人ばかりじゃて、立ち去りがたいのう。さぞやはつえどのも、お喜びじゃろう」

 登志夫とゆきえが並んでお礼を言うと、老僧は笑いました。

「礼を言わねばならんのは、わしのほうじゃ。まことに、世話になったの」

 登志夫が車の手配を申し出ると、老僧は丁重に辞退しました。

「ゆきえさん、登志夫さん。今度会うたときは、ぜひ元気なお子様を見て下され。
「さて拙僧の本業は、これから始まりじゃ。帰ったら、忙しくなりそうじゃ 」

 爽快な笑顔を残し、仁宗和尚は、若い二人の僧と帰ってゆきました。

 

 さて問題は、曙桜の折れた根っこの方です。町からやってきた庭師は、激しく損傷した部分をしっかり養生しました。さらに倒れた幹から丈夫な枝を選んで切り取り、根っこに接ぎ木をしておりました。彼は当初「上手く行っかは、半々っちとこかの」と言っておりましたが、翌年にはちゃんと花が咲いて、若葉が芽吹いたそうです。ゆきえを始め、村中の人が安堵したことは言うまでもありません。
 この庭師に、ゆきえはもう一つのことを頼んでありました。曙桜を製材する前に、元気の良さそうな枝を切り取って、他の桜の苗木に接ぎ木してもらうことでした。そうして出来た何本かは、観音堂の周囲に植えてもらいました。さらに町の我が家の庭にも、数本ほどを植えました。と言うのもゆきえは、曙桜に、自分の子供も近くで見守って欲しかったからです。
 その話を聞いた村人は、ゆきえと同じように、折れた桜の樹から使えそうな枝という枝を切り取って、全て接ぎ木にしました。そしてこれら苗木は、村の方々に植えられました。こうしてゆきえの村は、春になると村一面、淡い藍色を帯びた桜の花に覆われるようになりました。

 

 

 それから数年後、倒れた曙桜の木材を使って、観音堂が建て直されました。新たな観音堂も小さな御堂でしたが、前より立派な造りになりました。実はこの観音堂に、連日のように参拝客が押し寄せたので、相当のお布施が集まったのです。村人はさらに、桜の樹の皮をはいで、「子育て、家内安全のお守り」として売っていたと言いますから、なかなか商売上手です。こうして集まったお布施は、村の人たちが管理して、高台の整備や、お堂を建て直す資金に使われました。
 ゆきえの遠縁の夫婦は、既にこのお堂の管理が仕事の半分になっていました。そのことをゆきえは、たいそう心苦しく感じていました。ところが遠縁の男は、むしろ楽しそうでした。彼は、この仕事に生き甲斐を感じていたようです。

 さて、曙桜はもともと年老いた大木だったので、観音堂を建てるには十分すぎる木材が取れました。ちなみにその木材は、鋸の歯を入れても、火にくべても、独特の芳香が立ったそうです。それ故に余った桜材は、驚くほどの買値が付きました。誰もが、不思議な神通力を持つ曙桜を欲しがりました。しかし登志夫は、余程のことでもない限り、この木材を売りませんでした。ゆきえが、手放すことを嫌がったからです。

 ただし、いくつかの例外はありました。仁宗和尚のつてで、とある仏師が菩薩を彫りたいと申し出た時には、ゆきえと登志夫は喜んで提供しました。このことがご縁で、登志夫は、腕利きの彫刻家を紹介してもらいました。自宅の仏間に置く厨子を、曙桜の丸太から造って欲しいと思ったからです。それはいつか、ゆきえの観音様が帰ってきた時、収めるのに相応しい場所を用意するつもりもありました。ゆきえの話を聞いた彫刻家は、いたく感動したようでした。やがて彼は、見事な厨子を完成させました。それは木の幹を形取った厨子で、その根元には幼子が座っているという可愛らしい造形でした。言うまでもなく、ゆきえのエピソードを厨子の形に残したのです。

 面白いことに仁宗和尚も、曙桜から取れた木材を、わずかばかりゆきえにゆずってもらっていました。老僧はその後、自らの手で小さな慈母観音像を彫りました。そして終世、身近に置いて手放さなかったそうです。ずっと後に仁宗和尚が亡くなったとき、彼の遺言で木彫りの観音様は、和尚と共に荼毘(だび=火葬にすること)に付されたそうです。

 

 さて、新しく建て直された桜材の観音堂が完成すると、その仁宗和尚が再び呼ばれて、大々的に法要が営まれました。この時もまた、桜の花が満開の頃でした。村中に植えられた桜の苗は、あちらこちらで可愛らしい花を咲かせておりました。驚いたことに、接ぎ木した曙桜の根っこには既に、昔と同じ薄く藍色がかった花が、沢山咲いていたそうです。もちろん往年の古木の風格はありませんが、すでに立派な曙桜でした。
 仁宗和尚は、初めてこの村に来たときと違い、ずいぶん元気になっていました。他の者の支えも必要とせず、かくしゃくとしたご様子です。おかげで、何だか若返ったように見えました。しかしこの時、仁宗和尚はすっかり地位の高いお坊様になっていたそうです。このような山村の小さな観音堂に、これほどのお坊様が法要にやって来るなど、まったく異例のことでした。

 観音堂の高台では、数日前からすっかりお祭り騒ぎでした。仮設舞台が組み上げられ、法要前日にはお神楽と、子供達の念仏踊りが奉納されました。さらに、すっかり有名になった根っこの窪みには、幼子を連れた親子が行列を為しました。ゆきえのエピソードにちなんで、我が子の幸せを願う親たちが、競って座らせようとしたのです。おかげで遠縁の男は、接ぎ木した若木が痛まないよう、参拝客の整理におわれることとなりました。
 法要の前夜には、曙桜の観音様にヒントを得た旅芸人一座が、母子分かれの人情芝居まで行いました。この芝居は大盛況で、村のバス停から観音堂の沿道には、参拝客相手の屋台まで出る騒ぎでした。おかげで近隣の旅館では、連日の満員御礼に、思わぬ嬉しい悲鳴を上げるのでした。

 ゆきえと登志夫も、あの後に生まれた子供を抱いて、この法要に参加しました。実は最初の子供はもう大きくなっており、二人目の子供を一緒に連れてきていました。上が男の子で、下が女の子でした。ゆきえの子供を見たいと言っていた仁宗和尚は、二人の子供に会って、たいそうな喜びようでした。それはまるで、自分の孫に会えたような笑顔でした。
 その年、下の女の子がちょうど、ゆきえが母と別れたのと同じ年齢でした。ゆきえもきっとそれまでの母達がしてきたように、二人の子供達を、あの根っ子に座らせたに違いありません。そして、自分に起きた不思議なお話しを聞かせてあげたことでしょう。桜の根っ子には、もうそこを覆い隠すような大きな木陰はありませんでしたが、再び生き返った曙桜が、ささやかながら花吹雪を散らしていました。そして、いまなお古木の風格を残す根っこからは、木肌の暖かなぬ くもりが十分伝わるはずでした。
 ゆきえは、曙桜が生き返って、とても嬉しそうでした。そして自分の手で子供を育てられる今の暮らしを、何に変えても幸せなことだと思っていた様でした。 

 

 以来、新聞で紹介された観音様は「桜観音」と呼ばれ、一躍有名になりました。しかし、ゆきえの母のことをよく知っている村の人々は、「おはつ観音」と呼んでいたそうです。そして母親代わりとなり、最期まで子供の命を守った曙桜は、いつしか「子育て桜」と呼ばれる様になりました。実は昔、このような子育ての樹は、決してめずらしいものではありませんでした。どこの村どこの町にも、子供達が集まって遊ぶ樹が必ずありました。そんな樹は時に、猿山のように沢山の子供達を登らせて遊び相手になってあげたり、またひとりぼっちで寂しい子供達の居場所となって、やさしく慰めてあげたりしていたのです。でも今は、そんな光景を目にすることも珍しくなりました。

 そう言うわけで、この桜観音(おはつ観音)子育て桜には、その後も長い間、子供の成長と無事を祈って参拝する人が絶えなかったそうです。


<以下、続く>


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